サーファーズジャーナル最新号25.5号(日本版6.5号)の目次紹介

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<フューチャーストーリー>
ウッディ・グーチ、オーストラリアはヌーサ出身の21歳の若きサーフ・フォトグラファーの作品が、ザ・サーファーズ・ジャーナルのポートフォリオに取り上げられた。彼は現在、東京をベースに活躍しているサーフィン界新進気鋭の注目株だ。
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Portfolio: Woody Gooch
サーファー目線の視点が新鮮なイメージを創り出す
文:デボン・ハワード

17歳のとき、ローチのスポンサーのDeus Ex Machinaが制作していた『I Had Too Much To Dream Last Night』というフィルムプロジェクトのために、ローチとともにジャワに向かった。Deusのブランド・ディレクターであるダスティン・ハンフリーは、ジャワで初めてウッディと出会う。そしてそこで、1週間に10,000ショットを撮影する彼の姿を目撃したのだ。Deusの次のフィルム『South to Sian』の制作の仕事で、インドネシアをハリソンとザイ・ノリスとともに旅するワイルドな数カ月にわたるロードトリップ・プロジェクトだった。サーフィンとダートバイク・アドベンチャーの一部始終を映像に収める作業の見返りに、ダスティンは、ウッディに自分の有するフォトビジネスのノウハウすべてを伝授した。

つづいて紹介する特集は、当時ハワイの超有名人だったデューク・カハナモクがいかに白人たちに利用され、人種差別を受けつづけたかという、デューク・カハナモク論だ。1925年に製作された無声映画『ザ・ポニー・エクスプレス』で、“インディアン・チーフ”役を演じたデューク。有色人種の主役への抜擢が禁じられていた当時のハリウッドで、彼は脇役として異なる民族の役柄を押し付けられた。

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Duke’s Ulcers
「デュークの葛藤」

ハワイが輩出したサーフィン界の絶対的アイコン。体(てい)のいい仕事に甘んじたあげく、いいように宣伝に利用され、人種差別に耐え抜いた波乱の生涯を振り返る
文:スティーブ・ホーク
デュークはカメハメハ大王と首長の末裔(まつえい)として1890年に生を受けた。1世紀ほど遡った当時、80万人近くいたハワイ先住民は、西欧の探検家や宣教師などが持ち込んだ病原菌によって人口およそ4万人にまで落ち込む。デュークがまだよちよち歩きの頃、裕福な白人の一団が陰謀を図り、ハワイにおける最後の君主、クイーン・リリウオカラニを失脚させた。米軍が介入すると偽って脅しをかけ、自らを公安委員会とまで名乗った裕福なハオレ(白人)たちのはったりに女王は屈服し、流血沙汰を避けるべく平和裏に政権を明け渡すことにした。それ以降、太平洋の島国はアメリカ合衆国に組み込まれ、現在に至る。

ハワイのビッグウェーバー、マーク・ヒーリーが新たなビッグウェーブ用のガンのデザインをシェーパーたちと模索しはじめた。そのわけは?

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THE HEALEY VARIATIONS
「マーク・ヒーリーのガン・ボード開発」
ビッグウェーブ・トップガンとシェーパーたちの新たな取り組み
文:ジョック・セロング
写真:ジョン・ビルダーバック

昨年末、マーク・ヒーリーがeメールを送ってきた。文面はシンプルだが、その内容に私は少し驚かされた。彼は通いなれたサーフポイント、ピアヒ、プエルト、マーヴェリックス、そしてトドスでラインを描くことにもう疲れてきたと述べていたからだ。「ビッグウェーバーのトップたちはパフォーマンスの限界に達しているんだ」と彼は言う。「今やっていることってお決まりのガンに乗って、ただアグレッシブにサーフすることだけなんだよね」
 エルニーニョによる不気味な波がブレークするウインターシーズン。ヒーリーは3人のお気に入りシェーパーにコンタクトを取った。サーフボードの新しい可能性を広げるため、あえて定説を無視したボード作りを求めたのだ。ストレートラインのサバイバルから一歩抜け出すための可能性を彼は模索しはじめた。

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Divine Detail
「ディバイン・ディテールス」
わが編集部のトップ・フォトエディターが発見した、新たな記録と記憶
写真・文:ジェフ・ディバイン

パイプライン、1974年。当時は、だれもが何本もボードを持てなかった。よって、ボードも友人同士でシェアするのが当たり前だった。だから“折ってしまった者が弁償する”、そんな暗黙のルールが存在していた。もしボードが真っ二つに折れてしまった場合、容疑者はできる限りの手を尽くしてその事実をひた隠しにした。しかし、いずれ交渉はスタートする。人によっては、現金はないが、それ以上に大量のハッパをストックしている輩も多くいた。大抵の場合、現金200ドルとハーフパウンド(約227g)のゴールド・コロンビアン(マリファナ)で片が付いたものだ。このスリーストリングス・ブルーワーのボードもだれかにとって高くついたことだろう。

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West As All Hell
「地の果て西部へ」
カリフォルニア開拓地への帰郷
文:デイブ・パーメンター

ハワイ諸島に移り住んで約20年が経過した頃、ようやく私は、故郷の西海岸カリフォルニアの地に立った。ネイティブ・カリフォルニアン3世として、太平洋のど真ん中に位置する小さな諸島で育まれたメンタリティを胸に、シエラマドレ山脈の麓に位置し、すてきな海岸線に面したこの地へと戻ってきたのだ。そして気づいたのは私の故郷が、ヤシの木に囲まれたハリウッドのオープンセット、世間知らずの観光客が好んで訪れるような、そんな馬鹿げた要素は、今やまったく皆無だということだった。

今号のオリジナルコンテンツは佐藤秀明のポートフォリオだ。佐藤秀明は『サーフマガジン』誌創刊から活躍した日本で最初のサーフ・フォトグラファーだ。 “North shore: As It Was, As It Is”は、1970年から1980年までのハワイ・ノースショアを記録したものだ。この時代のノースショアは、ショートボード・レボリューションを経てパイプラインをはじめとするインサイドのリーフブレークにおけるサーファーたちのパフォーマンスが飛躍的に発展した時代で、またノースショアという実験場によってサーフボード・マニュファクチャリングもまた進化を遂げた時代であった。

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North Shore: As It Was, As It Is
「ノースショアのゴールデン・ディケード」
佐藤秀明が記録した、ハワイ・ノースショアがもっとも輝いていた時代
文:森下茂男

佐藤秀明がサーフィンという存在に興味をもったのは、なんとニューヨークでだった。日本大学芸術学部写真学科を卒業した佐藤秀明は、1年間アルバイトをして貯めた資金を握りしめてニューヨークへ向かう。「1968年だったかな、3ヶ月ぐらいで帰る予定でニューヨークに行ったんだ。でも、着いてすぐにお金などすべて盗まれてしまったので、しょうがないからバイトをして暮らしているうちにだんだんニューヨークが面白くなって、けっきょく3年近く、マンハッタンのあちらこちらを点々としていた」と言う。