サーファーズジャーナル6周年最新号25.2号(日本版6.2号)の目次紹介!
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「Aフレームの攻撃」
写真:アンドリュー・シールド
クレイグ・アンダーソン、”吠える40度(ローリング・フォーティ)”にて
その旅は、夜の7時にニューキャッスルからはじまった。ニュー・サウス・ウェールズの海岸を南下してふたりの友人をピックアップ。それから翌日午後のメルボルン発のフライトにむけて、飛行場までの夜を徹した16時間ぶっ通しのドライブがはじまった。ぼくは、夜中の2時から夜明けまでの地獄のシフトをこなした。徹夜のドライブは初めてだったが、友人たちは慣れっこで、 この季節にはごく普通のことのようだった。真夜中の車中はクレイジーでエキサイティング 。コーヒーに大音量の音楽、全員が眠らないことがポイントで、状況に身を委ねれば相当笑えるものだった。これはAフレームで知られる島へのショートトリップの、フィナーレの記録だ。
「ウォーターマンっていったい何だよ?」
サーフィンの世界でもっともよく使われるこの言葉を検証してみよう
文:ブラッド・メレキアン
もしもあなたが、ここ10年のあいだに頻繁に使われるようになり、しかもたいていの場合はしっくりこない使われ方をする “ウォーターマン”という言葉を聞いて首をかしげたことがない人なら、この言葉はあなたにとって、さほど重要な意味を持たないのかもしれない。しかしこの“ウォーターマン”というフレーズが、いまやサーフィン雑誌はもちろんメインストリームの出版物でも、マーケティングのキャンペーン(マーケティング・キャンペーンではとくに使用頻度が高い)や、媚(こ)びへつらう人物紹介、映画の中でも映画のトピックスでも頻繁に使用される、もはやちょっとしたセレブなみのステータスでまかり通っているという事実だけは、あなたも知っておいたほうがいい。
「カムチャッカ再訪」
ロシア最東端の地で遭遇したヒグマと密漁者と軍警察
文:サイラス・サットン
写真:ディラン・ゴードン
旧ソ連製のヘリコプターで雪に覆われたいくつもの岩の峰を越えると、眼下に大きな湾が広がった。3年近くグーグルアースとにらめっこしてきた目当ての波は、この湾のいちばん奥にある。旅のメンバーは、ガールフレンドのアンナ・アーゴットとカムチャッカで最初のサーファーとなったアントン・モロゾフ、それにぼくが親しくしているカリフォルニア州ベンチュラに住むフォトグラファーのディラン・ゴードンだ。河口周辺をゆっくり旋回するヘリから見下ろすと、深い森林に覆われた崖の下で一見パーフェクトな波がアシカの群れに割って入るようにブレークしていた。前回目撃したサメは、すくなくとも今は見当たらない。
「ピンクに染まって」
ピーター・タウンネンドは、生涯輝きつづける人生を送っている
文:フィル・ジャラット
ポートレート:ショーン・デュフレーヌ
ピンクのシャツに身をつつんだずんぐりむっくりの男。いかしたスニーカーを履(は)き、しっかりした足取りで群衆をかきわけ進むその姿は、さながら田舎の政治家が選挙遊説にのぞむ雰囲気を醸(かも)しだしている。つねに笑顔であっちにシャカし、こっちに握手し、群衆のなかをスマートに練り歩く。PTは、忙しそうにその会場にいる人たちとあいさつを交わしていた。彼がプロサーフィンの初代チャンピオンになってから約40年、いや、そのもっと前から彼はずっとこれをやっているのだ。彼は、その文化と歴史が築きあげてきたヒーローにヒール、勝者と敗者、貧しい者から億万長者まで、分け隔てなくこのスポーツのためにできるかぎりを尽くしてきた。
ギャラリー:サディアス・ストロード
「自虐的再発見」
ウエストLA発、サーフ表現主義—その衝撃的万華鏡
文:アレックス・ウェインステン
サッド・ストロードのアートを、親と喧嘩した怒れるティーネージャーみたいだと安易に理解しないでほしい。ニキビ面の子供たちにも理解が必要だし、それは愛があってもなにもわかってない親みたいなものだから。彼のアートが未熟で洗練されていないわけではない。むしろその逆だ。じっさい彼の作品は挑戦的かつ天才的な構図が特徴で、それは最先端アートとはなにかを主張する。そこにルールはない。即興性を重視し、技術的には平易さを避け、遠慮ない直接的表現を選ぶ。つまりパンクなのだ。
「終わりなき夏のビーチハウス」
21世紀の湘南に生まれた、サーファーによるサーファーのための空間、”surfers(サーファーズ)“という名前のビーチハウス。
文:森下茂男
海の家というのは日本のビーチカルチャーだが、時代の流れのなかで海水浴客のニーズによって変貌し進化していく。昭和から平成へ、海の家は家族連れがくつろぐスタイルから、若者たちが音楽を聴きお酒を楽しめるカフェバー・スタイルへと変化していく。こうした流れのなか、2009年にサーファーズという、サーファーたちの手による海の家が逗子海岸に登場する。それはサーファーの持つビーチカルチャーと日本独自の海文化が融合したものなのだろう。サーファーズが誕生する際にマスターピースとなったライブハウスがある。それが1999年に金沢文庫の国道16号線沿いにオープンしたロード&スカイというお店だった。
「ンタンド」
南ア、ダーバンのストリートから出現した“ボーンフリー”サーファー
文:ウィル・ベンディックス&サモオラ・チャップマン
ダーバンの海岸線には、あちこち歯が抜けたようにデコボコに建物が並ぶ。ゴールデンマイルと呼ばれる長い砂浜に沿って、高層ホテルと億ションが競うように軒をつらね、またそれとは対照的なオンボロアパート群が何ブロックもつづく光景が混在する。その下にはインド洋に突き出たコンクリートの埠頭や桟橋、そして何世代にもわたって南アフリカのサーファーたちを育ててきた波がある。ンタンド・ムシビと出会ったのがそこだった。桟橋がつくるレフトのボウル、そのなかでスプレーを上げていた。両腕を垂らし、安定した姿勢でのボトムターンからリップを切り裂き、テールを蹴ってスムースにフラットゾーンに着水、という彼のその日のラストライドは、まさに彼そのもの。連続スピンで、次、そして次のターンへと移っていく彼の細くしなやかな身体は、まるでゴムでできているかのようだった。10年前、ムシビは、ダーバンの街頭で、道行く人に食べ物とお金を無心するというその日暮らしの日々を送っていた。ドラッグにはまり、危険な状況がつづくサバイバルな日常。「そこで寝泊まりしていたよ。スケートパークでさ」ビーチフロント沿いの落書きだらけのセメントの壁を指差しながら彼は言う。
「ショートボード革命の閃光」
1968年のプエルトリコは、最先端をいくサーファーたちの、サーフボードの未来を占う戦いでもあった
文:ナット・ヤング
1968年にプエルトリコで開催されたワールド・サーフィン・チャンピオンシップは、言い換えればショートボード革命の国際的なデビュー戦だった。しかしこの革命は、サーフボードの長さだけではなく、正確にはさまざまなデザインのコンビネーションによる、新しいサーフスタイルの幕開けと捉えてしかるべきだ。この世界戦の50周年を前にこれを再考することは、ひじょうに意義あることだと思う。
ポートフォリオ:竹井達夫
「20年前の生き方」
時代を逆行させるセンチュリー650mmレンズのむこうにみるモダン・ノスタルジア
文:デボン・ハワード
43歳の竹井達男の生き方を決める大きなきっかけとなったのは、ジョン・ミリアスの映画『ビッグ・ウェンズデー』だった。1989年にマットとジャックとリロイの世界を垣間見てしまったこの日本人は、ミリアスが描いた‘60年代カリフォルニアのライフスタイルを追求することにしたのだが、彼をとくに魅了したのは彼らが使っていた道具だった。その色彩とデザインの美学、そしてそれが水の上を動く様子。エンドロールを見ながら彼は、この場所をみつけ、このボードに乗ってみたいという切なる願いを抱いた。